「へんじゃごしょさま」のいわれですが、遠く蓮如上人の時代までさかのぼります。
西光寺に伝わる御文(蓮崇書写本)は、元々は瓶子屋という家に伝来したもので、瓶子屋の屋号を「へんじゃ」といいますので、「へんじゃごしょさま」と呼ばれています。

右の写真は、「へんじゃごしょさま(御文・蓮崇書写本)」に記載されている端書きです。この御文蓮崇書写本は、蓮如上人の門弟である下間蓮崇(しもつまれんそう)によって書写されたものです。
  表紙左上には 自文明第五至 「諸文集 」 文明第三間也、右下には「釋蓮崇」とあり、これらはいずれも蓮如上人の自筆です。この表紙の文字については、蓮崇が本文の書写を終えて蓮如上人に端書の執筆を願い出た際に、蓮如上人が端書とともに記されたものとされています。
 さて、蓮如上人の自筆の端書には「右斯文どもは、文明第三之比より同き第五之秋の時分まで、天性こゝろにうかむまゝに、何の分別もなく連々に筆をそめおきつる文どもなり…」とあり、先ほどの表紙にも記されているように、蓮崇書写本蓮崇書写本は文明3年(1471年)から文明5年(1473年)に記された「御文」を書写したものであることがわかります。
 続いて端書には「さだめて分體のおかしきこともありぬべし。またことばなんどのつゞかぬこともあるべし。かたがたしかるべからずあひだ、その斟酌をなすといへども、すでにこの一帖の料紙をこしらへて書写せしむるあひだ、ちからなくまづゆるしおくものなり」とあり、蓮崇書写本に収録されている「御文」の中には文体の整わぬところもあるとしながらも、蓮崇写本が制作されたことに認可を与えています。また、端書には「于時文明第五 九月廿三日に藤島鄕の内林鄕超勝寺において、この端書を蓮崇所望のあひだ、同廿七日申の剋にいたりて筆をそめおはりぬ」とあることから、本端書は文明第5年(1473年)9月23日に蓮崇が蓮如上人に執筆を所望し、9月27日に至って記されたものと分ります。その際、蓮如上人は端書や表紙の文字に加えて、本文についても数箇所に訂正を施し、さらに新たな「御文」も書き加えています。
 なお、「へんじゃごしょさま(御文・蓮崇書写本)」は18通からなり、文明3年7月から同5年9月までの蓮崇書写分16通(16通目奥書は蓮如自筆)に、蓮如上人が自筆で書き添えられた端書と最後の2通で構成されています。なかに訂正のしるしと傍記部分もそのまま写した箇所がみられ、各通末尾に「あなかしこ」が付されていないことから、蓮如上人の机上にあった原本から写し取ったものと想像されます。
 このように、「へんじゃごしょさま(御文・蓮崇書写本)」は蓮如上人在世中に書写された上、蓮如上人の実見を経て加筆もなされていることから、その資料的価値についても、蓮如上人自筆の「御文」に準ずるものであるといえます。
 また、蓮崇書写本は「御文」の十数通が書写されて冊子状になっていますが、ここに蓮如上人が端書等を記しているということは、蓮如上人自身も「御文」がこのような冊子の携帯で引き継がれているということを認めているといえます。つまり、「へんじゃごしょさま(御文・蓮崇書写本)」は「御文」が聖教化された最初期の例として認められるもので、大変貴重なものです。
 参考資料 浄土真宗聖典全書 五 相伝篇 下(浄土真宗本願寺派) 

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端書云
右斯文どもは、文明第三之此より同じき秋の時分まで、天性こゝろにうかむまゝに、何の分別もなく連々に筆をそめおきつる文どもなり。さだめて分體のおかしきこともありぬべし。またことばなんどのつゞかぬこともあるべし。 かたがた しかるべからずあひだ、その斟酌をなすといへども、すでにこの一帖の料紙をこしらへて書写せしむるあひだ、ちからなくまづ ゆるしおくものなり。 外見の義 くれぐれあるべからず。
たゞ自然のとき自要ばかりに これを そなへらるべきものなり。
                              あなかしこ、あなかしこ。

 于時文明第五 九月廿三日に藤島鄕の内林鄕超勝寺において、この端書蓮崇所望のあひだ、同廿七日申の刻にいたりて筆をそめおはりぬ。
釋 蓮如(花押)

或人いはく、當流のこゝろは、門徒をばかならず我弟子とこゝろへおくべく候やらん、如来・上人の御弟子とまふすべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。
又在々所々に小門徒をもちて候をも、此間は手つぎの坊主にはあひかくしおき候やうに心中をもちて候。これもしかるべくもなき由、人のまふされ候間、同くこれも不審千萬に候、御ねんごろに承度候。
答ていはく、此不審尤肝要とこそ存候へ。かたのごとく耳にとゞめおき候分、まふしのぶべくきこしめされ候へ。
故聖人の仰には、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰られ候ひつれ。そのゆへは如来の教法を十方衆生にとききかしむるときは、たゞ如来の御代管をまふしつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法を我も信じ、人にもおしへきかしむるばかりなり。その外はなにをおしへて弟子といはんぞと仰られつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて聖人は御同朋、御同行とこそ、かしづきて仰られけり。さればちかごろは大坊主分の人も、我は一流の安心の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに、信心の沙汰する在所へゆきて聴聞し候人をば、事外説諫をくはへ候て、或は中をたがひなんどせられ候間、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、又弟子をばかやうにあひさゝえ候ふあひだ、我も信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくように候事、まことに自損損他のとがのがれがたく候。あさましあさまし。
古歌にいはく、
  うれしさを むかしはそでに つゝみけり
  こよゐを身にも あまりぬるかな
「うれしさをむかしはそでにつゝむ」といへるこゝろは、むかしは雑行、正行の分別もなく、念佛だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこゝろなり。「こよゐは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をきゝわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに佛恩報盡のために念佛まふすこゝろは、おはきに各別なり。かるがゆへに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへる こゝろなり。
   文明三年七月十五日

加州二役にて文明三 七月十六日
文明第三初秋仲旬之比、加州或山中邊において人あまた會合して申様、近比佛法讃嘆、事外わろき由をまふしあへり。そのなかに俗の一人ありけるが申様、去比南北の念債の大坊主もちたる人に封して法文問答したるよしまふして、かくこそかたり侍べりけり。
俗人いはく、昔流の大坊主達はいかやうに心ねを御もちありて、その門徒中の面々をば御勧化候哉覧、無御心元候。委細蒙仰度存候。
坊主答云、當流上人の御勸化の次第は、我等も大坊主一分にては候へども、巨細はよくも存知せず候。乍去、凡先師などの申おき候趣は、たゞ念佛だに申せ、たすかり候とばかり承り置候が、近比はやうがましく信心とやらんを具せずは往生は不可と若輩の申され候が、不審にこそ候へ。
俗問いはく、その信心といかやうなる事を申候哉。
答いはく、先我等が心得置候分は、彌陀如来に歸したてまつりて朝夕念佛を佛御たすけ候へとだにも申候へば、往生は一定と心得てこそ候へ。其外は大坊主をばもちて我等も候へども、委細は存知せず候。
俗問ていはく、さては以前蒙仰候分は、以外此間我等聴聞仕候には大に相違して候。先大坊主分にて御渡り候へ共、更に上人一流の安心の次第は御存知なく候。
我等事は誠に俗體の身にて候へども、申候詞をも、げにも思食しより候はゞ、聴聞仕候分は可申入候にて候。
坊主答云く、誠以貴方は俗體の身ながら、かゝる殊勝の事を申され候者哉。委細御かたり候へ、可聴聞候。
俗答いはく、如法出物なる様に存候へ共、如此蒙仰候之間、聴聞仕候趣大概可中人候。我等事は奉公の身にて候之間、常在京なども仕候間、東山殿へも細々参候て聴聞仕分をば、心底をのこさずかたり可申候。御心にしづめられ可被聞召候。先御流御勧化の趣は、信心をもて本とせられ候。そのゆへはもろもろの難行をすてゝ、一心に彌陀如来の本願はかゝるあさましき我等をたすけまします不思儀の願力也と、一向にふたごゝろなきかたを、信心の決定の行者とは申候也。さ候時は、行住座臥の稱名も自身の往生の業とはおもふまじき事にて候。彌陀他力の御恩を報じ申す念佛なりと心得うべきにて候。
次に、坊主様の蒙仰候信心の人と御沙汰候は、たゞ弟子の方より坊主へ細々に音信を申し、又物をまひらせ候を信心の人と仰られ候。大なる相違にて候。能々此次第を御心得あるべく候。されば當世はみなみなかやうの事を信心の人と御沙汰候。以外あやまりにて候。此子細を御分別候て、御門徒の面々をも御勧化候はゞ、御身も往生は一定にて候、又御門徒中もみな往生せられ候べき事うたがひもなく候。是則誠に「自心教人信乃至大悲傳普化」(禮讚)の釋文にも符合せりと申侍べりしほどに、大坊主も殊勝のおもひをなし、解脱の衣をしぼり、歓喜のなみだをながし、改悔のいろふかくして申様、向後は我等が散在の小門徒の候をも、貴方へ進じおくべき由申侍べりけり。又なにとおもひいでられけるやらん、申さるゝ様は、あらありがたや、彌陀の大悲はあまねけれども、信ずる機を攝取しましますものなりとおもひいでゝ、かくこそ一首は申されけり。
  月かげの いたらぬところは なけれども
  ながむる人の こゝろにぞすむ
といへる心も、いまこそおもひあほせられてありがたくおぼへはんべれとて、此山中をかへらんとせしが、おりふし日くれければ、またかやうにこそくちずさみけり。
  つくづく おもひくらして 入あひの
  かねのひゞきに 彌陀ぞこひしき
とうちながめ日くれぬれば、足ばやにこそかへりにき。
  文明三年七月十六日

當流親鸞聖人の一義は、あながちに出家發心のかたちを本とせず、拾家棄欲のすがたを標せず、たゞ一念歸命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をゑらばざるものなり。さればこの信をえたるくらゐを『經』(大經巻下)には「即得往生住不退轉」ととき、釋には「一念發起入正定之聚」(論 注巻上意)ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
『和讃』(高僧和讃)にいはく、「彌陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 本願名號信受して 寤寐にわするゝことなかれ」といへり。「外儀のすがた」といふは、在家、出家、男子、女人をゑらばざるこゝろなり。つぎに「本願名號信受して寤寐にわするゝこととなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、又つみは十惡、五逆、謗法、闡提のともがらなれども、廻心懺悔して、ふかくかゝるあさましき機をすくひまします彌陀如来の本願なりと信知して、ふたごゝろなく如来をたのむこゝろの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をゑたる信心の行人とはいふなり。さてこのうへには、たとひ行住座臥に稱名すとも、彌陀如来の御恩を報じまふす念佛なりとおもふべきなり。これを眞實信心をゑたる決定往生の行者とはまふすなり。
  あつき日に ながるゝあせは なみだにて
  かきをくふでの あとぞおかしき
   文明三年七月十八日

勢ひきゝ人のいはく、先年京都上洛のとき、高野へのぼるべき心中にて候ところに、乗専申されけるは、當流の儀はあながちに高野なんどへまひるは本儀にあらず、當流安心決定せしめんときは、いかにも御本寺に堪忍つかまつりたらんが、報恩謝徳の道理たり。
しかれば我等もその義にて堪忍まふすなりと、こまごまと佛法次第かたりたまふほどに、それより御流の安心にはもとづきたてまつるなり。さいはひに和田の御新發意、その時分御在京候あひだ随逐まふし候て、いよいよ佛法次第聴聞つかまつりさふらひて、それよりこのかた御流の安心にはなをなをもとづきまふすなり。
これしかしながら御新發意の御恩いまにあさからざるなり。さ候あひだ、聴聞つかまつりさふらふ次第すこしはわろくもまふし候、またはあらくもまふし候いはれにや、越州、加州不信心の面々には件の心源とまふされ候て、かぜをひき候き。しかれども正法の御威光によりて儀理のちがひさふらふところをも、うけたまはりわけさふらふによりて、已前のごとくにはあひかはりて沙汰つかまつり候あひだ、すでにはやその名をあらためて蓮崇とこそまふし候なり。なほなほも相違の子細あるべくさふらふほどに、たれびともよくよく御教訓にあづかりさふらはゞ、まことにもて「同一念佛无別道故」(論註巻下)のことはりにあひかなひ候べきものなり。
   文明三年九月十八日

まづ當流の安心のおもむきは、あながちにわがこゝろのわろきをも、また妄念妄執のこゝろのおこるをも、とゞめよといふにもあらず、たゞあきなひをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ。かゝるあさましき罪業にのみ朝夕まどひぬるあさましき我等ごときのいたづらものを、たすけんとちかひまします彌陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごゝろなく彌陀如来の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこゝろの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。このうへにはなにとこゝろへて念佛まふすべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念佛まふすべきなり。これを當流の安心決定したる信心の行者とはまふすべきなり。
   文明三年十二月十八日

 一念多念事
これもぬきがき

「眞宗の肝要は一念往生をもて淵源とし、一念をもては往生治定の時剋とさだめて、そのときのいのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理なり。されば平生のとき一念往生治定のうへの佛恩報謝の多念の科名とならふところなり。一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこゝろえみだす條、すこぶる経釋に違せるもの歟。されば先達よりうけたまはりつたへしがごとくに、他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念佛すべし。これすなはち上盡一形の釋にかなへり。しかるに世のひとつねにおもへらく、上盡一形の多念も宗の本意とおもひて、それにかなはざらん機のすてがてらの一念とこゝろうる歟。これすでに彌陀の本願に達し、繹尊の言説にそむけり。そのゆへは大悲短命の根機を本とせば、いのち一刹那につゞまる无常迅速の機いかでか本願に乗ずべきや。」(口傳鉦意)
  上盡一形下至一念事

「下至一念といふは、本願をたもつ往生決定の時剋なり。上盡一形といふは、往生即得のうへの佛恩報謝のつとめなり。」(口傳鉦意)
  卒生業成事

「そもそも宿善開發の機において、平生に善知識のおしへをうけて、至心、信樂、欲生の歸命の一心他力よりさだまるとき、正定聚のくらゐに住し、また即得往生住不退轉の道理をこゝろえなん機は、ふたゝび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は佛恩報謝の他力催足の大行たるべき條、文にありて顕然なり。
念佛往生は臨終の善悪を沙汰せず、至心、信樂、欲生の歸命の一心他力よりさだまるとき、即得往生住不退轉の道理を善知識にあふて聞持する平生のきざみに、往生は治定するものなり」(口傳鉦意)と云々。
   文明四年二月八日

 善導云、

「諸衆生等久流れ生死不解安心(禮讚意)文
 この文のこゝろは、あらゆる衆生ひさしく生死に流轉することはなにのゆへぞといへば、安心決定せぬいはれなり。
 又云、
「安心定意生安樂(禮讚意)文
 この文のこゝろは、安心さだまりぬれば安樂にかならずむまるゝなりといへり。
これはみなぬきがきなり

一「眞宗においてはもはら自力をすてゝ他力に歸するをもて宗の極致とするなり。」(改邪鉦意)

一「三業のなかには口業をもて他力のむねをのぶるとき、意業の憶念、歸命の一念おこれば、身業禮拝のために、竭仰のあまり贍仰のために、檜像、木像の本尊を、あるひは彫刻しあるひは畫圖す。しかのみならず佛法示誨の恩徳檜しを戀慕し仰崇せんがために、三國傳來の祖師、先徳の尊像を圖繪すること、これつねのことなり。」(改邪鉦意)

一「光明寺の和尚の御釋をうかゞふに、安心、起行、作業の三ありとみえたり。そのうち起行、作業の篇をばなを方便のかたとさしおきて、往生浄土の正因は安心をもて定得すべきよしを釋成せらるゝ條、勿論なり。しかるに吾大師聖人このゆへをもて他力の安心をさきとしまします。それについて三經の安心あり。そのなかに『大經』をもて眞實とせらる。『大經』のなかには第十八の願をもて本とす。」(改邪鉦意)

一「第十八の願にとりてはまた願成就をもて至極とす。信心歓喜乃至一念をもて他力の安心とおぼしめさるゝゆへなり。この一念を他力より發得しぬるのちには、生死の苦海をうしろになして涅槃の彼岸にいたりぬる條、勿論なり。この機のうへは他力の安心よりもよほされて、佛恩報謝の起行、作業はせらるべきによりて、行住座臥を論ぜず、長時不退に到彼岸のいひあり」(改邪鉦)と云々。

一「『觀經』所説の至誠、深心等の三心をば凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだむなり。」(改邪鉦意)

一「『大經』所説の至心、信樂、欲生等三信をば他力よりさづけらるゝところの佛智とわけられたり。しかるに方便より眞實へつたひ、凡夫發起の三心より如來利他の信心に通入するとぞとおしへおきましますなり」(改邪鈔)と云々。
廃立といへる事

一「眞宗の門においてはいくたびも廢立をさきとせり。廢といふは捨なりと釋す。聖道門の此土入聖得果、己身の彌陀、唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道をすてよとなり。
立といふはすなわち彌陀他力の信のもて凡夫の信とし、彌陀他力の作業をもて正業として、この穢界をすてゝかの淨刹に往生せよとしつらひたまふをもて、眞宗のこゝとするなり」(改邪鉦意)と云々。
   文明四年二月八日

十一
「一向専修の名言をさきとして、佛智の不思議をもて報土往生をとぐるいはれをばその沙汰におよばざる、いはれなきこと。
それ本願の三信心といふは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまふふには聞其名號信心歡喜乃至一念とらとけり。この文について凡夫往生の得否は乃至一念發起の時分なり。このとき願力をもて往生決得すといふはすなはち攝取不捨のときなり。もし『觀經義』によらば安心定得といへる、これなり。また『小經』によらば一心不亂ととける、これなり。しかれば祖師聖人御相承弘通の一流の肝要これにあり。こゝをしらざるをもて他門とし、これをしれるをもて御門弟のしるしとす。そのほかかならずしも外相において一向専修行者のしるしをあらはすべきゆへなし」(改邪鉦意)といへり。
十二
一 「當教の肝要は凡夫のはからひをやめて、たゞ攝取不捨の大益をあふぐべきものなりご(改邪鈔)
十三

一 「七箇條の御起請文には、念佛修行の道俗男女、卑劣のことばをもてなまじゐに法門をのべば、智者にわらはれ愚人をまよはすべしと云々。かの先言をもていまを案ずるに、すこぶるこのたぐひ歟。もとも智者にわらはれぬべし。かくのごときのことばもとも頑魯なり荒涼なり」(改邪鈔)と云々。
十四
一 「たゞ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもてむまるべがらざるものをむまれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこへはんべるものなり。」(改邪鈔)
  宿善開府の機事
十六
「そもそも宿善ある機は正法をのぶる善知識にしたしむべきによりて、まねかざれどもひとをまよはすまじき法燈には、かならずむつむべきいはれあり。宿善もし開發の機ならば、いかなる卑劣のともがらも願力の信心をたくはへつべし」(改邪鉦意)と云々。
 无宿善の機事
「宿善なき機は求ねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて、善知識にはとをざかるべきいはれなれば、むつびらるゝも、とをざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有无も、もとも能所ともにはづべきものをや。しかるにこのことはりにくらきがいたすゆへ歟。一旦の我執をさきとして宿善の有无をわすれ、わが同行ひとの同行と相論すること愚鈍のいたり、佛祖の照覧をはゞからざる條、至極つたなきもの歟、いかん。しるべし」☆(改邪鈔)と云々。
十七
一 「曇鷺和向、同一念佛无別道故といへり。されば同行はたがひに四海のうちみな兄弟のむつびをなすべきに、かくのごとく簡別隔略せば、おのおの確執のもとゐ我慢の先相たるべきものなり。」(改邪鉦意)
   文明四年二月八日

抑 親鸞聖人の一流においては、平生業成の儀にして来迎をも執せられさふらはぬよし、うけたまはりおよびさふらふは、いかゞはんべるべきや。その平生業成とまふすことも、不来迎なんどの儀をも、さらに存知せず。くはしく聽聞つかまつりたくさふらふ。
答ていはく、まことにこの不審もとももて一流の肝要とおぼへさふらふ。おほよす當家には、一念發起平生業成と談じて、平生に彌陀如来の本願の我等をたすけたまふことはりをきゝひらくことは、宿善の開發によるがゆへなりとこゝろえてのちは、わがちからにてはなかりけり、佛智他力のさづけによりて本願の由来を存知するものなりとこゝろうるが、すなはち平生業成の儀なり。されば平生業成といふは、いまのことはりをきゝひらきて往生治定とおもひさだむるくらゐを、一念發起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退轉ともいふなり。
問ていはく、一念往生發起の儀くはしくこゝろえられたり。しかれども不來迎の儀いまだ分別せずさふらふ。ねんごろにしめしうけたまはるべくさふらふ。
答ていはく、不來迎のことも、一念發起住正定聚と沙汰せられさふらふときは、さらに來迎を期しさふらふべきこともなきなり。そのゆへは來迎を期するなんどまふすことは、諸行の機にとりてのことなり。眞實信心の行者は、一念発起するところにて、やがて攝取不捨の光益にあづかるときは、来迎までもなきなりとしらるゝなり。されば聖人のおはせには、「來迎は諸行往生にあり。眞贅信心の行人は、攝取不捨のゆへに正定聚に住す。正定聚に住するがゆへに、かならず滅度にいたる。かるがゆへに臨終まつことなし、來迎たのむことなし」(古寫消息四意)といへり。この御ことばをもてこゝろうべきものなり。
問ていはく、正定聚と滅度とは一益とこゝろうべきか、また二益とこゝろうべきや。
答ていはく、一念發起のかたは正定聚なり、これを穢土の益なり。つぎに滅度は淨土にてうべき益にてあるなりとこゝろうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。
問ていはく、かくのごとくこゝろえさふらふときは、往生は治定と存じおきさふらふに、なにとてわづらはしく信心を具すべきなんど沙汰さふらふは、いかゞこゝろえはんべるべきや。これもうけたまはりたくさふらふ。
答ていはく、まことにもてこのたづねのむね肝要なり。さればいまのごとくにこゝろえさふらふすがたこそ、すなはち信心決定のこゝろにて候なり。
問ていはく、信心決定するすがた、すなはち平生業成と不來迎と正定聚との道理にてさふらふよし、分明に聴聞つかまつりさふらひおはりぬ。しかりといヘども信心治定してののちには、自身の往生極樂のためとこゝろえて念佛まふしさふらふべきか、また佛恩報謝のためとこゝろうべきか、いまだそのこゝろをえず候。
答ていはく、この不審また肝要とこそおぼへさふらへ。そのゆへは一念の信心發得巳後の念佛をば、自身往生の業とはおもふべからず、たゞひとへに佛恩報謝のためとこゝろえらるべきものなり。されば善導和尚 の「上盡一形下至一念」(禮讚意)と釋せり。「下至一念」といふは信心決定のすがたなり、「上盡一形」は佛恩報盡の念佛なりときこえたり。これをもてよくよくこゝろえらるべきものなり。
   文明四年十一月廿七日
                  (帖内一-四)

そもそも去年冬のころ、あるひとのいはく、路次にて興ある坊主にゆきあひぬ。さるほどにこの坊主をみるに、件の門徒のかたより物とり信心ばかりを存知せられたるひとなり。それがしおもふやう、よきついでにてさふらふあひだ、一句たづねまふすやう、いかように御流の安心をば御こゝろえさふらふや、これにてまひりあひさふらふことも不思議の宿縁とこそ存じさふらふあひだ、おそれながら信心のやうまふしいれべくさふらふ、又領解さふらふ分、委細うけたまはりさふらへとまふすところに、おはせられさふらふやうは、もろもろの難行をすてゝ一向一心に彌陀に歸するが、すなはち信心とこそ存じおきさふらへとまふされけり。この分ならば子細なく存じさふらひつれども、この坊主はまさにさやうのこゝろえまでもあるまじく心中に存じさふらふあひだ、かさねてまふすやうは、さいはひにまひりあひさふらふうへは、なにごとも心底をのこさずまふしうけたまはるべくさふらふ。所詮已前おほせさふらふ御ことばに、もろもろの雜行をすてゝ一心一向に彌陀に歸するとうけたまはりさふらふは、雜行をすてゝさふらふやうをも、また一心一向に彌陀に歸するやうなんどをもよく御存知さふらふて、かくのごとくうけたまはりさふらふやらん。こたへていはく、いまの時分みな人々のおなじくちにまふされさふらふほどに、さてまふしてさふらふ。そのいはれをば存知せずさふらふ。われらがことはなまじゐに坊主にてさふらふあひだ、あまりに貴方にむかひまふしてその御返事まふさではいかゞと存さふらひてまふしてさふらふなり。さらに信心の次第をばかつて存知せずさふらふあひだ、あさましくさふらふ。さいはひにまひりあひさふらふあひだ、ねんごろに信心のやううけたまはるべくさふらふ。かやうにうちくつろぎおはせさふらふあひだ、まふしいれべくさふらふ。よくよくきこしめさるべくさふらふ。そもそももろもろの雜行をすてゝ一心一向に彌陀に歸すとまふすはことばにてこそさふらへ。もろもろの雜行をすてゝとまふすは、彌陀如来一佛をたのみ、餘佛、餘菩薩にこゝろをかけず、また餘の功徳善根にもこゝろをいれず、一向に彌陀に歸し一心に本願をたのめば、不思議の願力をもてのゆへに彌陀にたすけられぬる身とこゝろえて、この佛恩のかたじけなさに行住座臥に念佛まふすばかりなり。これを信心決定の人とまふすなりとかたりしかば、歓喜のいろふかくして、感涙をもよはしけり。また坊主まふされけるは、先度身が同朋を教化つかまつりさふらふことのさふらふつる、これもいまはあやまりにてさふらふ。懺悔のためにかたりまふすべくさふらふ、御きゝさふらへ。所詮身が門下に有德なる俗人のさふらふなるを随分勸化つかまつりさふらふこゝちにてまふすやうは、貴方はさらに信心がなきよしまふしさふらふところに、かの俗人おはきなるまなこにかどをたてまふすやうは、すでにわれらが親にてさふらふものは、坊主において忠節のものにてさふらふ。そのいはれは、少寄進なんどもまふしさふらふ、また家なんどつくられさふらふときも、助成をもまふしさふらふ。またわれらにおきても自然のときは合力もまふしさふらふ。そのほかときおりふしの禮儀なんども今日にいたるまでそのこゝろざしをはこび、物を坊主にまひらする信心をいたしまふしさふらふ。そのうへには後生のためとては念佛をよくとなへさふらふ。なにごとによりてわれらが信心がなきなんどうけたまはりさふらふやらん。さやうになにともなきことをおはせさふらはゞ、門徒をはなれまふすべくさふらふよしまふしさふらふあひだ、かの仁はわれらがためには一のちから同朋にてさふらふあひだ、萬一他門徒へゆきさふらはゞちからをうしなふべくさふらふあひだ、さては貴方の道理にてさふらふひとが、さやうにまふすよしきゝさふらふあひだ、さてこそまふしつれ、向後におきてさやうにまふすべからず。あひかまへてあひかまへて他門下へゆくべからざるよしまふしさふらひき。これもいまはわれらがあやまりにてさふらふあひだ、おなじく懺悔まふすなり。
   文明五年二月一日書之

            加州、能州、越中
そもそも當年よりことのほか、両三國のあひだより道俗男女群をなして、こ
の吉崎の山中に参詣の面々の心中のとをり、いかゞとこゝろもとなくさふらふ。そのゆへはまづ當流のおもむきは、このたび極樂に往生すべきことはりは、他力の信心をえたるがゆへなり。しかれどもこの一流のうちにおいて、しかしかとその信心をすがたをもえたるひとこれなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや、一大事といふはこれなり。さいはひに五里十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこゝろざしは、いかやうにこゝろえられたる心中ぞや。千萬こゝろもとなき次第なり。所詮巳前はいかやうの心中にてありといふとも、これよりのちは心中にこゝろへおくべき次第をくはしく申すべし。よくよくみゝをそばだてゝ聴聞あるべし。そのゆへは他力の信心といふことをしかと心中にたくはへさふらひて、そのうへには佛恩報謝のためには行住坐臥に念佛をまふすべきばかりなり。このこゝろえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こゝろざしをもいたすべきものなり。これすなはち當流の義をよくこゝろえたる信心の人者とはまふすべきものなり。
   文明五年二月八日

                  

そもそも昨日ひとのまふされさふらひしは、たれびとにてわたりさふらひつるやらん、かたりまふされけるは、このごろなにとやらん坊主達の、まことに佛法にこゝろをいれたまひさふらふか、また身にとりて佛法のかたにちときずもいたかも御わたりさふらふか、さらに心中のとは。をもしかしかと慨悔の義もなく、またとりわけ信心のいろのまさりたるかたをもまふされさふらふ分もみえずさふらふて、うかうかとせられたるやうにをぼへさふらふは、いかゞはんべるべくさふらふや。たゞ他屋役ばかり御なうらひさふらふて、座敷すぎさふらへば、やがて他屋他屋えかへらせたまひさふらふは、よき御ふるまひにてさふらふか、よくよく御思案あるべくさふらふ。されば善導の御釋にも「自信教人信乃至眞成報佛恩」(禮讃)と釋せられさふらふときは、自身もこの法を信じひとをしても信心なきものをすゝめさふらはんこそ、まことにもて佛恩報盡の道理にてもあるべくおぼへさふらふ。また上盡一形下至一念」(禮讚意)と判ぜられさふらふときも、一念の信心發得のすがたもみえず御わたりさふらふ。また一形憶念の義もさらに成就せられたるともみおよびまふさずさふらふ。よくよく御挍量あるべくさふらふ。あさましあさまし。こゝろにうかむとおりまふすなり。御免御免。南无阿弥陀仏。
   文明五年二月九日

抑 當年の夏このごろは、なにとやらんことのほか睡眠におかされて、ねむたくさふらふはいかんと案じさふらへば、不審もなく往生の死後もちかづくかとおぼへさふらふ。まことにもてあぢきなく名残おしくこそさふらへ。さりながら今日までも、往生の期もいまやきたらんと油斷なくそのかまへはさふらふ。それにつけても、この在所において已後までも信心決定するひとの退轉なきやうにもさふらへかしと、念願のみ晝夜不斷におもふばかりなり。この分にては往生つかまつりさふらふとも、いまは子細なくさふらふべきに、それにつけても面々の心中もことのほか由斷ともにてこそはさふらへ。命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべくさふらふ。よろづにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じさふらへ。明日もしらぬいのちにてこそさふらふに、なにごとをまふすもいのちおはりさふらはゞ、いたづらごとにてあるベくさふらふ。いのちのうちに不審もとくとくはれられさふらはでは、さだめて後悔のみにてさふらはんずるぞ、御こゝろへあるべくさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。
 この障子のそなたの人々のかたへまひらせさふらふ。
 のちの年にとりいだして御覧候へ。
   文明五年卯月廿五日書之

さんぬる文明第四の暦、彌生中半のころかとおぼえはんべりしに、さもありぬらんとみへつる女性一二人、男なんどあひ具したるひとびと、この山のことを沙汰しまふしけるは、そもそもこのごろ吉崎の山上に一宇の坊舎をたてられて、言語道斷おもしろき在所かなとまふしさふらふ。
なかにもことに、加賀・越中・越後・信濃・出羽・奥州六ヶ國より、かの門下中、この當山へ道俗男女参詣をいたし、群集せしむるよし、そのきこえかくれなし。これ末代の不思議なり、たゞごとともおぼへはんべらず。さりながら、かの門徒の面々には、さても念佛法門をばなにとすゝめられさふらふやらん、とりわけ信心といふことをむねとをしへられさふらふよし、ひとびと申しさふらふなるは、いかやうなることにてさふらふやらん。くはしくきゝまゐらせて、われらもこの罪業深重のあさましき女人の身をもちてさふらへば、その信心とやらんをききわけまゐらせて、往生をねがひたくさふらふよしを、かの山中のひとにたづねまふしてさふらへば、しめしたまへるおもむきは、「なにのやうもなく、ただわが身は十悪・五逆、五障・三従のあさましきものぞとおもひて、ふかく、阿彌陀如来はかゝる機をたすけまします御すがたなりとこころへまゐらせて、ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を攝取したまふなり。これを彌陀如来の念仏の行者を攝取したまふといへるはこのことなり。摂取不捨といふは、をさめとりてすてたまはずといふこころなり。このこころを信心をえたる人とは申すなり。さてこのうへには、ねてもさめても、たつてもゐても、南无阿弥陀仏と申す念仏は、弥陀にはやたすけられまゐらせつるかたじけなさの、彌陀の御恩を、南无阿彌陀仏ととなへて報じまうす念仏なりとこころふべきなり」とねんごろにかたりたまひしかば、この女人たち、そのほかのひと、申されけるは、「まことにわれらが根機にかなひたる彌陀如来の本願にてましましさふらふをも、いままで信じまゐらせさふらはぬことのあさましさ、申すばかりもさふらはず、いまよりのちは一向に弥陀をたのみまゐらせて、ふたごころなく一念にわが往生は如来のかたより御たすけありけりと信じたてまつりて、そののちの念仏は、仏恩報謝の称名なりとこころえさふらふべきなり。かかる不思議の宿縁にあひまゐらせて、殊勝の法をききまゐらせさふらふことのありがたさたふとさ、なかなか申すばかりもなくおぼえはんべるなり。いまははやいとままふすなり」とて、涙をうかめて、みなみなかへりにけり。あなかしこ、あなかしこ。

内方教化
そもそも吉崎の當山において他屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに前世の宿縁あさからぬゆへとおもひはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。しかれば内方とならんひとびとは、あひかまへて信心をよくよくとらるべし。それまづ當流の安心とまふすことは、おほよす淨土一家のうちにおきて、あひかはりてことにすぐれたるいはれあるがゆへに、他力の大信心とまふすなり。さればこの信心をえたるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、今度の往生は一定なりとこゝろうべきものなり。その安心とまふすは、いかやうにこゝろうべきことやらん、くはしくもしりはんべらざるなり。
こたへていはく、まことにこの不審肝要のことなり。おほよす當流の信心をとるべきおもむきは、まづわが身は女人なれば、つみふかき五障、三従とてあさましき身にて、すでに十方の如来も三世の諸佛にもすてられたる女人なりけるを、かたじけなくも彌陀如来ひとりかゝる機をすくはんとちかひたまひて、すでに四十八願をおこしたまへり。そのうち第十八の願において、一切の悪人、女人をたすけたまへるうへに、なを女人はつみふかくうたがひのこゝろふかきによりて、またかさねて第三十五の願になを女人をたすけんといへる願をおこしたまへるなり。かゝる彌陀如来の御久労ありつる御恩のかたじけなさよと、ふかくおもふべきなり。
間ていはく、さてかやうに彌陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまひらせさふらひぬるについて、なにとやうに機をもちて、彌陀をたのみまひらせさふらはんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。
こたへていはく、信心をとり彌陀をたのまんとおもひたまはゞ、まづ人間はたゞゆめまぼろしのあひだのことなり、後生こそまことに永生の樂果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの難行をこのむこゝろをすて、あるひはまたものゝいまはしくおもふこゝろをもすて、一心一向に彌陀をたのみたてまつりて、そのほか餘の佛・菩薩・諸神等にもこゝろをかけずして、たゞひとすぢに彌陀に歸して、このたびの往生は治定なるべしとおもはゞ、そのありがたさのあまり念佛まふして彌陀如来のわれらをたすけたまふご恩を報じたてまつるべきなり。これを信心をえたる他屋の坊主達の内方のすがたとはまふすべきひとなり。
   文明五年九月十一日

夫當宗を一向宗と、わが宗よりもまた他宗よりもその名を一向宗といへること、さらにこゝろゑがたき次第なり。祖師聖人はすでに浄土眞宗とこそおはせさだめられたり。他宗の人の一向宗といふことは是非なし、當流の中にわれとなのりて一向宗といふことはおはきなるあやまりなり。まづ當流のことは自餘の浄土宗よりもすぐれたる一義あるによりて、我聖人も別して眞の字をおきて浄土眞宗とさだめたまへり。つぶさにいへば浄土眞宗といふ、略していへば眞宗といふべきなり。されば他宗には宗の字にごりてつかふなり、當流にはすみてつかふべきなりとこゝろうべきものなり。

抑今月廿八日は添も聖人毎年の御正忌として于今退轉なく、その御勧化をうけしやからは、いかなる卑劣のものまでも、その御恩をおもんじまふさぬ人これあるべからず。しかるに予去文明第三の暦夏の比より、江州志賀郡大津三井のふもとをかりそめながらいでしよりこのかた、此當山に幽栖(カスカナルスミカ)をしめて、當年文明第五の當月の御正忌にいたるまで存命せしめて、不思議に當國、加州の同行中にその縁ありて、同心のよしみをもてかたのごとく兩三ケ度まで報恩謝德のまことをいたすべき條、悦てもなを喜べきは此時なり。依之今月廿一日の夜より聖人の知恩報徳の御悌事を加賀、越前の多屋の坊主達の沙汰として勤仕まふさるゝについて、まづ心得らるべきやうは、いかに大儀のわづらひをいたされて御佛事を申るといふとも、當流開山聖人のすゝめましますところの眞實信心といふことを決定せしむる分なくは、なにの篇目もあるべからず。まことにもて「水いりてあかおちず」なんどいへる風情たるべき歟。そのゆへはまづ他力の大信心といへる事を決定してのうへの佛恩報盡とも師德報謝とも申べき事なり。たゞ人まねばかりの體はまことに所詮なし。しかりといヘどもいまだ今日までもその信心を決定せしむる分なしといふとも、あひかまへて明日より信心決定せしめば、それこそまことに聖人の報恩謝徳にもあひそなはりつべくおぼへはんべれ。このおもむきをよくよくこゝろゑられて、この一七ケ日のあひだの報恩講のうちにおいて、信不信の次第分別あらば、これまことに自行化他の道理なり。別しては聖人の御素懷にはふかくあひかなふべきものなり。
   于時文明第五霜月廿一日書之

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