蓮如上人ゆかりの寺・西光寺

蓮如上人は本願寺第8世で、宗祖親鸞聖人の教えを人々にわかりやすく説かれ、真宗を再興してくださいました。蓮如上人は全国を歩いて本願念仏の教えを説き広めつつ、一方「手紙」という当時としては新しい方法で真宗の教えを、人々の心に強く訴えられました。お勤めの後に拝読されます「アナカシコ、アナカシコ」の御文(おふみ)は、この手紙が編集されたもので、真宗の教えがわかりやすく、しかも簡潔に書き表されています。
 この御文と密接な関係にあるのが、蓮如上人の弟子下間蓮崇(しもつまれんそう)という方です。越前国・今の福井市の出身で、蓮如上人が吉崎においでた時に、才能を蓮如上人に見込まれて下間姓と「蓮」の一字を与えられ、上人の右腕とされた人物でした。上人の信頼が厚く、吉崎における蓮如の秘書長とも言うべき存在でした。そして、蓮崇は御文の流布に大きな功績を残しました。門徒さんへの御文作成は、この蓮崇の進言によるといわれています。「蓮崇書写本」といわれる御文は文明3年(1471年)から文明5年(1476年)までのもので、蓮崇が上人手控えの原本から書き写されたものとされています。この「蓮崇書写本」御文は、日本で最初に編集された御文本といわれており、蓮如上人直筆の端書きが記された、大変貴重な御文です。
 さて、西光寺に伝わる「へんじゃごしょさま」ですが、実は、この「蓮崇書写本」御文なのです。瓶子屋という家に伝来したので『瓶子屋御書』とも呼ばれています。瓶子さんの屋号を「へんじゃ」といいますので、そこから「へんじゃごしょさま」と呼ばれるのかと思います。
 ところで、蓮崇は文明7年(1475年)蓮如上人の指令と偽って門徒の一揆を誘導したので破門されました。
 言い伝えによりますと、蓮崇は、その後、「蓮崇書写本御文一冊・三具足一組・上人愛用の茶碗一個」をもって吉崎より退去しました。流浪の旅を重ねた蓮崇は珠洲の正院の「瓶子屋」に滞在したそうです。そのおり、自分の子どもを正院にあった真言宗の青涼寺(せいりょうじ)というお寺の住職にしました。その後青涼寺は西光寺と改称して本願寺の門末となり、現在にいたっています。
   (西光寺22代住職 禧美 裕章 談)

蓮如上人と西光寺

西光寺縁起

開基、蓮崇 出所不詳
創立、文明3年(1471年)
縁起 開基蓮崇ハ、元真言宗清涼寺住職ニシテ、智門ト号ス。文明三年本願寺第八世蓮如法主ニ帰依シ、改宗シテ法名ヲ蓮崇ト改メ、後チ寺号ヲ西光寺ト改ム。
明治11年(1879年)12月…… 

へんじゃごしょさま

「へんじゃごしょさま」は、文明3年(1471年)から5年の間に蓮如上人が書かれた18通の「御文」を、蓮如上人の弟子・蓮崇という人が書写して冊子にまとめた御文本です。蓮崇書写本とも呼ばれています。
 この「へんじゃごしょさま」……

へんじゃまいり

毎年4月24・25日に珠洲・正院・西光寺において、蓮如忌「へんじゃまいり」がつとまります。
4月24日と25日の両日、「へんじゃごしょさま」は、瓶子家でお勤めのあと、さしかけられた朱傘のもと、瓶子家の当主が……

西光寺蔵親鸞聖人絵伝

西光寺蔵の「御絵伝」は、文明3年(1471年)本願寺より下付されたものです。裏書に、蓮如上人の署名と花押が記されています。
本絵伝は石川県に遺存する文明期以前の親鸞絵伝四例のうちの一つで、珠洲市の文化財に指定されています。……

  戻る

 2024年1月1日の能登半島地震により鐘楼堂が倒壊し、本堂・鐘楼堂・庫裏(住居)は倒壊を免れましたが、罹災調査では全壊判定でした。また、墓地全体も壊滅的な状況になりました。けれども、仏さまは、幸いなことに仏具屋さんで修理中('25年の震度6強の地震により、宮殿と共に倒れ損傷)で無事でした。また、浄土真宗門徒にとっては宝物である「へんじゃごしょさま(御文・蓮崇書写本)」も、なんとか無傷で取り出すことができました。同じく、親鸞聖人御絵伝も無事取り出すことができました。
 まったく先は見えません。けれども、時間はかかるとは思いますが、この地での新たな寺のあり方を求めご門徒さんとともに新しい西光寺の誕生に向けて力をあわせ前進することができればと願っています。また、「へんじゃごしょさま」をお守りし、「へんじゃまいり」の継承にも力を注いで生きたと思っています。
 西光寺復興を考えたとき、住職自身が問われたのは、「なぜご門徒さんも被災している中、お寺を維持しなければならないのか」ということでした。しかし、長い歴史の中でお寺というものが、どのような存在だったのかを考えたときに、やはりそこには多くの方が生きる拠り所として集まる「場」であったというところに存在意義があり、今日まで存続されてきたのだと思います。未来に向けて、小さくても、門徒皆様のそして地域のお寺として、そして皆様が集う「場」となるようなお寺として復興できますよう、そして、故郷への想い、子どもたちへの想い、未来への想い、そんな想いを形にする「旗印」になることができればと願っています。

 戻る

 お寺というのはご門徒さんの支えによって永代に渡り護持されていく仏教施設です。西光寺も創立以来、多くのご門徒さんの懇志により成り立ってきました。しかし、今般の能登半島地震を契機に、この地はますます過疎化・高齢化が進み、門徒戸数も減少することは明らかです。西光寺の維持運営も相当厳しくなることが予見されます。
 ところで、今回の地震では、寺社仏閣も半壊以上は公費解体が適用されることになりました。将来のことを鑑み、苦渋の決断ですが、歴史ある西光寺本堂・庫裏・鐘楼堂の公費解体を決定させていただきました。
 大変な状況ですが、過疎地における新しいお寺のあり方をご門徒の皆さんと共に考え、伽藍と表現されるようなお堂を設けるのではなく、小さくても永代に渡って維持可能な新しい蓮如上人ゆかりの寺・西光寺の建設ができればと願っています。
 そして、「へんじゃごしょさま」をお守りしながら、「へんじゃまいり」を後世に繋いでいければと願っています。

1.コンパクトな本堂の建設
 ① 将来にわたって維持運営できるお堂にする。(できるだけ小さくする)
 ② 正面の階段を無くし、車いすでも入れるようにする。(バリアフリー化し、どのような人でも気軽にお参りできる場の建立)
 ③ 参拝者の空間を椅子席にする。
 ④ 外からでもお堂の中の様子が分かるようにする。
 ⑤ 過度に華美にせず、費用をなるべく抑えるようにする。
2.ご門徒さんに護持されてきた歴史的・文化的資産の継承
 ① 「へんじゃごしょさま(蓮崇書写本)」と「へんじゃまいり(蓮如忌)」を後世に残す。
 ② 「西光寺蔵親鸞聖人御絵伝(ごえでん)」を修復し、後世に残す。
3.庫裏(くり)の建設
 住職・寺族は寺院を護持し運営していきますが、その護持運営の基盤となるのが庫裏という住職・坊守・寺族の居住空間ですが、できるだけコンパクトにします。
4.鐘楼堂の建設
 無事だった鐘をつるす、鐘楼堂を建築します。
5.共同のお墓の建設
 ご家族による継承を前提としたお墓の維持が困難になってきていますが、ご家族が祖先祭祀の役割を果たせなくなったとしても、亡きお方の尊厳を守りることのできる合葬墓を建築します。

  戻る