下間蓮崇 人物伝
下間蓮崇(しもつまれんそう)は、越前国麻生津(あそうづ)・今の福井市の出身で、蓮如上人が吉崎においでた時に、才能を蓮如上人に見込まれて下間姓と「蓮」の一字を与えられ、上人の右腕とされた人物でした。上人の信頼が厚く、吉崎における蓮如の秘書長とも言うべき存在でした。また、蓮崇は御文(おふみ)の流布に大きな功績を残しました。門徒さんへの御文作成は、この蓮崇の進言によるといわれています。
蓮崇は御文の集録に最初に取り組み、「蓮崇書写本」御文を作成しました。中には、訂正のしるしと傍記部分もそのまま写した箇所がみられ、各通末尾に「あなかしこ」がないことから、蓮如上人の机上にあった原本から写し取ったものと言われています。端書きには「文明5年蓮崇所望ニツキ書写スコトヲユルシオクモノナリ」とあり、上人は蓮崇は蓮如上人より、かなり信用されていたようです。この「蓮崇書写本御文」は、日本で最初に編集された御文本といわれており、蓮如上人直筆の端書きが記された、大変貴重な御文です。
ところで、蓮崇は文明7年(1475年)蓮如上人の指令と偽って門徒の一揆を誘導したので破門されました。
言い伝えによりますと、蓮崇は、その後、「蓮崇書写本御文1冊・三具足1組・上人愛用の茶碗一個」をもって吉崎より退去しました。流浪の旅を重ねた蓮崇は珠洲の正院の「瓶子屋」に滞在したそうです。そのおり、自分の子どもを正院にあった真言宗の青涼寺というお寺の住職にしました。その後青涼寺は西光寺と改称して本願寺の門末となり、現在にいたると伝えられています。また、もう一人の子どもは瓶子屋を継いだとあります。
晩年、蓮崇は、蓮如上人ご往生の5日前に破門が解かれ、他の門徒と共に蓮如上人の最後に立ち会い、亡くなられた明応8年(1499年)に追腹をして殉死したそうです。そのお墓は現在も、京都山科別院に上人と並んで安置されています。
1、蓮崇、上人に御文の制作をすすめる(『蓮淳記』)
越前の吉崎の御坊にて弥仏法ひろまり申さふらひて、御文をつくられさふらふ事は、安芸法元申さふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡の者のはやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び百の物を十に撰ばれ十のものを一に、早く聞分け申様にと思召され、御文にあそばしあらはされて、凡夫の速に仏道なる事を仰立てられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化今一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事候也。
2、蓮崇は最初の「御文章」集録者
文明3年より同5年に至る間の「御文」18通を集録。通称「へんじゃごしょさま(蓮崇書写本)」
3、蓮崇、権勢を誇る(『蓮如上人塵拾記』)
文明の初めの比、越前国吉崎の御坊建立也。其同国あそう津の村仁に候き。心さかしき人にて侍し間、安芸州へも往返之事侍しにより、安芸と人云付て侍しか、吉崎殿へ望申、茶所に侍て物をよみ手習をし、一文字をも不知仁にて侍しか、よるよる学問を心にかけ手習をして、四十の年より物を書、真物を書習、正教等まて令書写候て浄土法門心にかけ、才学の身と成りて吉崎殿御内へ望申、奉公を一段心に入られしまゝ、蓮如上人御意にも叶、丹後玄永はうばへ(朋輩)と成て、安芸安芸とめされ一段秀でたる事に侍り。法門御意をも得られける程に人々も近付聴聞し侍り、門徒も出来侍り。
……然処、安芸法眼いよいよ威勢分限出来、吉崎殿寺内安芸居住の処には土蔵十三立、一門繁昌の事にて、則越前の朝倉弾正左衛門法名英林と申者聞及、名字の庶子になし、阿と名乗。令上洛、将軍慈照院殿御被官分に成候て、奉公は壱分と定られ、数度御内書等被成候。
則法眼とは将軍より被成候。法橋とは於吉崎御成候。ぬり輿の御免も将軍家より被仰付、従其は鞍覆、唐笠袋まて武家御所より御免候き。左候間、於吉崎威勢かきりなく、……
4、蓮崇、細川政元を仲介に破門の許しを請う(『空善記』)
仰に、加賀のあき(下間安芸法名蓮崇)あやまりをもなをしたるよしを、御門徒してわび候はゞ、ゆるすこともあるべきに、細川玄蕃頭(政元)へつげて、権家にてわび候あひだ、ゆるさず、と仰候き。
5、蓮崇、破門を許される(『実悟旧記』)
安芸蓮崇、国をくつがえし曲事に付て、御門徒をはなされ候。前々住上人御病中に、御寺内へ参り、御侘言申候へども、とりつぎ候人なく候し。その折節前々住上人ふと仰られ候、安芸をなをさうと思うふよ、と仰られ候。
御兄弟以下御申しには、一度仏法にあたをなし申候人に候へばいかゞ、と御申候へば、仰られ候、それぞとよ、あさましきことをいふよ。心中だになをらば、何たるものなりとも、御もらしなきことに候、と仰られて御赦免候き。その時御前へまひり、御目にかゝられ候とき、感涙畳にうかみ候と云々、而して御中陰の中に蓮崇も寺内にてすぎられ候。